やぎ園舎について
当園のある下余部は、かつて網干にあった四国丸亀藩の飛び地のうちのひとつでした。その丸亀藩領のうちに、川東組の大庄屋として近隣を治めてこられた八木家の邸宅がありました。川東組は現在の天満・長松あたりまでも含む広い範囲にわたります。その大庄屋さんのお宅と徳栄寺こども園は隣あわせでした。
徳栄寺保育園を始めた「徳栄寺」と、余部で「八木の本家」と呼ばれ、親しまれた八木家とはさかのぼれば姻戚関係にあったり、村の寺と大庄屋という、地域の中心的存在であったり、学制が始まるより前、住職と八木家当主が協力のもと、村の子ども達の教育にあたってきたという経緯もあったりと深いつながりがありました。
このたび、現在は関東におられる八木家ご当主よりお話をいただいて、江戸期からの住宅が、平成31年4月より徳栄寺こども園の乳児室として生まれ変わることになったのです。
太い梁、広い土間。雨の日には土間で遊び、庭にはたくさんの虫。風が吹けば、市の保存樹であるクスノキの葉ずれの音が聞こえてきます。子ども達が安全なように土間にはゴムチップを貼ったり、基礎をし直し、トイレや水回りは新しくして、耐震機能や湿度対策など新しい機能も取り入れたりしながら、できるだけ元のおうちの雰囲気を残しつつ、リノベーションしています。部屋の真ん中に柱や敷居も残っていますが、子ども達はうまくなじんで、おうちのなかで暮らすように生活しています。